としのくれ
 
 

「どうもありがとな。椎那ちゃん。来年もよろしくな」
「こちらこそ、よろしくお願いしますね」

「そいじゃ、初参りに行くとするかな。よいお年を、な」
「はい、ありがとうございました。行ってらっしゃいませ。よいお年を!」

…そんなやり取りをして 今年最後のお客さんを送り出します
一昨日、昨日、今日 年末の忙しい時期もやっと終わりです
 

年も押し詰まった大晦日の夜
ラジオから流れる歌合戦が 今年もあとわずかだと告げています

お正月をこざっぱりとした頭で迎えようとする人
近くに美容院がないからと 初詣のための髪の結い上げや着付けに来る人

一年の中でも1,2を争う忙しい時期
それが…年の瀬

どこの家も大掃除やおせち作りに忙しいこの時期
できればまとめてやってしまいたいところですが うちはそうもいきません

12月の最後のお休みは返上して
最後の3日間、29,30,31はお店を閉める時間も遅らせます

仕事が忙しくていつもの時間じゃ髪を刈りに来れない人
年末年始の準備で忙しい人にも さっぱりとした頭で新年を迎えて欲しいから

…全部マスターの受け売りですけどね
 

さて お客さんも帰ったし大掃除の仕上げをしましょう
おせちは忙しいなりに合間を見つけたり お仕事の後に作ったりして準備OK

大掃除もあらかた済んでいますから
あとは最後に残ったお店のお掃除だけです

高いところや重いものはマスターにお願いして
わたしはこまごまとしたところから始めます

こう言うときに日ごろどれだけお掃除してるかが出るんですね
あまり埃もたまってないし そんなに苦労せずにすみそうです

きゅっきゅっ きゅっきゅっきゅっ
マスターが脚立に乗って上のほうの窓を拭いています

始めて1時間 そろそろ身体が冷える頃
お茶でも煎れてきましょうか?
 

しばらくして お掃除 再開
身体も温まったし もうひとがんばりです

雑巾をゆすぐお湯を取り替えてきたら お店に人の気配…
こんな時間に誰かしら?

お店に入ると向こうの角の家のおじさんがいました
散髪用の椅子に座ってマスターとお話しています

おじさんの後ろには白衣を着たマスター
鋏とくしを持っています

「しいちゃんこんな時間にごめんな。仕事が今の今までかかっちまってさ」
おじさんがわたしに声をかけます

「そういうことなんで、掃除続けててもらえるか? 終わったら手伝うから」
とマスター

正真正銘 今年最後のお客さんですね
「わかりました。お掃除のほうは任せてください」

笑顔でそう応えると マスターが拭いていたあたりから 窓を拭き始めます
わたし一人でも小一時間もあれば終わるくらいの量です

「もしかすると年越しそばまでは手が回らないかもしれないです」
窓を拭きながら冗談まじりにそう言います

「いやいや、ほんっとにごめんよ。このお礼は今度するからさ」
おじさん鏡越しにすまなそうな顔をしています

「冗談です。お礼なんていいですから」
脚立の一番てっぺんに腰掛けて 高い窓を拭きながら応えます

さあ、残りを一気にやってしまいましょう
 

携帯用のラジオを脚立にぶら下げて 歌合戦を聞きながら窓拭きです
お店の中からマスターのはさみの音が心地よいリズムで聞こえてきます

ちょんちょんちょんちょん…… す、す
ちょんちょんちょんちょん…… す、す

その音にわたしの窓拭きの音が重なります
きゅきゅきゅ きゅっきゅっきゅっ

はさみの音がシャンプーの音に変わり かみそりをあてる音に変わり
ドライヤーの音に変わる頃には ラジオから除夜の鐘の音が流れていました

今年ももう終わりです
マスターもどうやら 年越しせずにすんだみたい

「いやいや、ほんと助かったよ。こんな遅くにありがとう」
おじさんしきりにお礼を言っています

「新年もよろしくお願いしますね。よいお年を」
マスターと二人でおじさんを送り出します

正真正銘 今年最後のお客さん 年越しせずにすんでよかったです
 

さあ 年越しそばの支度です
「すぐ作りますね」そう言って台所にむかおうとしたとき

「あっ、忘れてた」というマスターの声が聞こえてきました
なにを忘れてたんでしょう…

慌ててお店に見に行くと マスターが雑巾片手に脚立にのっています
一生懸命拭いているのは… お店のサインポール

くるくると回る床屋さんのトレードマーク
苦笑しながら見上げます これのお掃除を忘れるなんて

「落ちないように気をつけてくださいね。今お蕎麦ゆでちゃいますから」
抱え込むようにサインポールを拭くマスターに 声をかけます

手早くお蕎麦をゆでて お店に運んで…
あとは食べるだけです

「マスター、お蕎麦用意できましたから、手を休めて…」
食べちゃいましょう そう言おうとしたところに低い音が被さってきました

ボー
    ボー
  ボー
        ボー

新年を告げる港の汽笛 泊まっている船が一斉に鳴らす新しい年の産声
さまざまな音色が微妙に絡み合って 素敵なハーモニーを奏でています

お蕎麦がのびるのも忘れて ひとしきり聞き入ります
横でマスターが掃除の手を休めて 同じように聞き入っています

「結局、お掃除間に合いませんでしたね…」
「ま、来年こそは… だな」

「今年、です。もう年が明けましたから」
重箱のすみつつき もう何年も繰り返されたやり取り

「お、そうか。じゃあ、今年こそは… だな」
マスター 苦笑いを浮かべてます

「はい。今年こそは」
マスターとわたし 二人の笑い声が汽笛の余韻の残る空に溶けてゆきます
 

ちょっとのびてしまった年越し蕎麦を手繰って
新年の挨拶を交わして

今年も 良い年でありますように…

fin990203
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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