「彼と彼女のプロローグ」


             
 とある司令部の近くに鉄道の駅がある。
 その駅は、とある司令部を初めとした鎮守府の各司令部に勤務するものたちが通勤で利用する駅である。
 今日も今日とて朝の始業を前に各職場へと急ぐ人の波が列車からホーム、ホームから改札へと流れ、
そこからそれぞれの目的地へと別れていく。
 とある司令部の工廠で妖精たちの技術的サポートや艦娘の艤装の修理、周囲との調整を仕事とする
「技官の彼」もまたその一人であった。
 大学を卒業し技官として奉職、他司令部勤務を経て、とある司令部勤務となってクセのある工廠長や
妖精たちに揉まれる日々である。

「はぁ……」
「どうしたもんかなあ」

 朝だというのにため息が漏れる。
 それもそのはずだ、深海棲艦との闘いは止まるところを知らず、波はあれど侵攻作戦実行時には工廠は艦娘の
艤装の修理と改良の仕事で溢れかえり、時として職場で朝を迎えることさえあるのだ。
 しかも自分がその装備を持って闘いに行くわけではなく、自分よりも年下に見えるうら若き乙女たちに
戦闘そのものを委ねるほかないと言うのは、自分が技官だという事実を痛いほど理解していたとしても、
いや、理解しているからこそ、男子として情けないことこの上ないのである。
 ポケットに入れた手を彼はキュッと握りしめた。

「はぁ……」
「とは言えなあ」

 更にため息が漏れる。
 自分が修理し改良し開発している艦娘の艤装というものが自分を始めとした一般人の手には負えないことを
「彼」は司令部の他の誰よりもわかっていたのだ。
 だからそれを使いこなせる艦娘たちに全てを委ねる。
 委ねてその代わりに彼女たちが安心して艤装に命を預けられるようにこの身に代えても、直し、調整し、
新たな装備を作り上げる。
 そうして自分なりに司令部の一員として力になろうと誓ったのだ。
 彼が握った手にこもる力が強くなった。

「はぁ……」
「まあでもねえ」

 ため息は止まるところを知らない。
 そう割り切ったとしても、艦娘たちはうら若き乙女たちなのである。
 自分よりも少し下か下手すると倍くらい下に見えるようなそんな女性の集まりなのである。
 もうちょっとこう、自分なりに男子としてがんばりを見せなければならないのではないか。
 そんな気もしなくもなかった。
 しかし、だからと言って今以上になにかができるわけでもなく、気持ちだけがカラカラと空回りするのだ。
 彼は握った手をほどくとポケットから手を出して頭をポリポリとかいた。

「はぁ……」
「だからああいうことを言われてもなあ」

 彼は生来の気性のためか直接艦娘たちとやりとりすることになんだか腰が引けてしまいがちで、たまに艤装のことで
要望を受けたり礼を言われたりする程度の関わりしかしてこなかった。
 顔見知りの艦娘と言えば、直接意見のやりとりをする工作艦の明石と良く工廠に出入りしては謎装備を作る夕張程度のものだ。
 そんな彼が地元の友人たちに冷やかされたのだ。
 美人揃いの艦娘たちとは仲良くなれたのか、浮いた話の一つもないのか、と。

「はぁ……」
「そりゃあこう、気の利いた会話の一つもできれば……ねえ」

 苦労はないのだけどね、と口の中でもごもごと言葉をこねくり、出すことなく飲み込む。
 無論、彼の友人たちは彼のことをよく知っていて、そんなことはまずなかろうと言う体でからかうわけなのだが、
彼とて好きでこの性格をしているわけではないし、浮いた話の一つもあるに越したことはなかろうと思っていた。
 思っていたのだが、人間というのはそうそう変われるものではないし、人生に都合の良いハプニングは
そうは訪れないのである。そのことも彼は良く承知していた。

「はぁ……」

 彼が何度目かのため息を白い息と共に吐き出した。
 寒さが緩んできたとはいえ空気はまだ冷たい。
 手袋をするほどではないがさりとてコートなしではまだ寒い。
 と、そんな彼の横を黒い影がサッと追い越していった。
 一拍遅れて周囲の空気が動き、黒い影の主の残り香を彼の元へと運んできた。
 その香りに気がついた彼が追い越した影を視線に捉える。
 ハイヒール、タイトスカート、鞄を肩から提げて颯爽と進んでいく後ろ姿。
 「ああ、あの人か」と彼がその黒い影の正体を認識するまでにはものの数秒も必要とはしなかった。
 彼女の姿はこの時間にここでよく見かけるのだ。

「あれ?」

 今日はいつもよりも急いだ風かな、ぼんやりとそんなことを考えながら後ろ姿を目で追う彼。
 その彼の視線の先で、かすかな音を立てて手袋が地面に落ちた。
 より正確には、彼女の鞄に突っ込まれていた手袋が片方だけ鞄から落ちたのだ。
 手袋の主は落としたことに気がついていないようで、速度を落とさず前へと進んでいく。
 声をかけようか? いやここからだと雑踏に紛れて聞こえないかもしれない。じゃあどうする?
 周りの人は気がついていないのか気にとめていないのか、彼の足下に迫ってきた手袋には目もくれない。

「ああ、もう、仕方ないな」

 彼は手首の部分に高級そうなファーのついたバックスキンのやわらかな手袋を拾い上げると、
小さくなりつつある手袋の主に向かって走り始めた。
 知らない顔ではない。
 いや、同じ司令部にいるのだから広い意味では同僚だ。
 一度二度は職場でも顔を合せている。
 それに、親しくしゃべったことはなくても彼女の艤装のことはよく知っている。
 急ぎの修理の指揮を執ったことも何度かある。
 そんな彼女の落とし物をスルーするのはよろしくない。
 でも、どうやって声をかけようか。
 走り出してから彼はしまったと自分の行いを少し後悔した。

「あ、あの、これ」
「え?」

 結局、彼女に追いつくまでのものの数秒の間に思いついた言葉はたったこれだけだった。
 彼女の歩く速度に合わせ、声をかけて手袋を突き出す。
 そんなぶっきらぼうなことしか思い浮かばなかったのだ。
 「もうちょっとこう、なんとかならないかなあ」と自分で自分にツッコミを入れたくなるくらいどうしようもなく
下手くそなやり方に本当に自分が嫌になるけれど、どうしようもないのだ。
 こんな風に、目の前を歩く見知った麗しい乙女が自分の目の前で手袋を落としそれを自分が拾い上げて届ける、
なんて言う下手な恋愛小説でも使い古されたような状況に自分が置かれるなんて思いもしなかったのだから。

「あ、その」
「ああ。えっと……、ありがとう……ございます」

 彼女は「え?」と言う顔をし、鞄を見やった。
 そして状況を理解したのか彼の差し出した手袋を受け取ってそう返した。
 彼は彼女が手袋を受け取って謝辞を口にしたのを聞き、少し安堵した。
 変な人に声をかけられたなんて思われるのは心外だが、じゃあ自分の今の状況がスマートかと言えば
そんな自信は全くなかった。
 彼は追いかけた勢いまで速度を上げて彼女を追い越していき、しばらく先まで行ってようやく歩く速度を
普段の速さまで戻した。
 手袋を手渡したときに目に入った彼女の口元の八重歯と胸元のスカーフの柄と色が脳裏に鮮明に残っていた。
 言い換えれば顔を直視することができなかったのだ。

「ふぅ……任務完了」

 彼は肺に溜めた息を吐き出し、走ったという理由だけではない胸の鼓動の高まりを抑えようとした。
 最善かどうかはともかく、落とし物を渡すという最低限のことはできたのだ。
 それでよしとしようじゃないか。
 そう彼は自分の気持ちを落ち着けることにした。
 気安く話せる仲ならば、ステキな手袋ですね、とか、まだまだ寒いけど手袋をするほどではないですね、とか、
今日はいつもよりも歩くのが速いですね、とか、そのカチューシャ似合ってますね、とか、八重歯がチャーム
ポイントですよね、とか言えるのかもしれないが、今の自分には無理。
 そう、無理なのだ。

「まあいいや。今日もがんばろうか」

 手袋を届けた彼女は彼が所属する司令部の艦娘だ。
 向こうが覚えているかはわからないが、この司令部に配属になったときに秘書艦として内部の紹介と
事務手続きについて教えてくれたのが彼女だった。
 任務で傷ついた彼女の艤装の修理以外のことで初めて彼女の役に立てたのだから「きっと今日はいい日」なのだろう。
 そう彼は思った。
 例え提督から特急の直しの仕事を頼まれたとしても、工廠の妖精や装備妖精にからかわれたとしても、
工廠長に理不尽に絡まれてどやされたとしても、今日は全て笑って流せる気がした。


 こんな些細な出来事が彼自身や彼の今後を変えていくかはわからないが、少なくとも今日が彼にとって
恐らく人生の中でもトップクラスの良い日になったのは間違いないだろう。
 なぜならば、午後から提督が工廠を訪れ直々に修理の見通しについて彼に意見を求めた際に、付き従ってきた
秘書艦が彼の姿を認め、微笑みと共に軽く手を振ってくれたのだから。
 彼はやはり彼女の顔を直視することはできなくて、またしても口元の八重歯と胸元のスカーフの柄と
色合いだけが記憶に深く刻まれた。
 それはこの後も彼女から直接文句を言われるまでずっと続くのだが、それはまた別の話である。

Fin 





あとがきに代えて
 拙作をご覧頂きありがとうございました。
 どの艦娘の話かはなんとなくわかっていただけるのではないかと思います。
 こう言うオリジナル系の話はどうなんだろうなあ、と思いながら書いてみたのですが
 いかがでしたでしょうか。
 自分の実体験3割ってお話です。
 Holmes金谷さんからは続編を期待されましたが、まあこれはこれでいいんじゃないかと。
 「技官の彼」の前途に幸多きことを。


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