アマガミ 響先輩SS 「夏の終わりのある日のできごと」




 夏休みも終わりがもう目の前に見えてきたある日のこと。
 橘さんの部屋で、塚原ひびきがいつものように橘さんの受験勉強の面倒を見ていた。


 「うん、そこでこう考えて……」

 「あ、そうか」

 「で、こう持っていくと……」

 「なるほど」


 どうやら問題の解き方を教わっているようだ。


 「ね? ちょっと捻ってあるけど、解き方が見えちゃえば後は計算だけでしょ?」

 「そっか、こんなに単純になるなんて思わなかったよ」

 「ふふ、君は考え過ぎなんだよ」

 「そうかなあ……そんなことないと思うけどな。むしろひびきが何でこれをすらすら
 解けちゃうのか、そっちが不思議だよ」

 「はいはい。ぶつぶつ言ってないで次の問題。これができたら今日は終わりだから」

 「はーい」


 ひびきは、やれやれ、と言う顔をすると自分が持ってきた大学の課題に視線を戻した。
 ひびきとて暇なわけではない。
 夏休み中も水泳部の練習はあるし、休みが明けたら大学の上期の試験が待っている。


 「できたー」

 「くす、なんだか自信満々ね」

 「だってこれ、さっきの問題とほぼ一緒だったからね。解き方さえわかっちゃえば楽勝だよ」

 「そう? じゃあ見せてくれるかな」


 自信満々でひびきに問題の解答を渡した橘さんは、内容を確認するひびきの横顔を見ながら
今日のこの後のことを考えはじめた。


 「(だいたい予定通りの時間に終わったな。半日頭を使ってくたくただよ。なんだか
 お腹も空いてきたし、この後ひびきと商店街にアイス食べにいくなんていいかもしれないな。
 暑い中で食べるソフトクリーム。最高じゃないか。僕がひびきの横顔に見とれている
 うちにソフトが溶けだして、ほらほら溶けちゃってるよって言いながらひびきが
 それを舐めとってくれて、唇についたソフトを舌でペロッて拭うのをまた僕が見とれて
 それでひびきがやれやれって言いながらくすっと笑うんだ。その口元が唾液で
 すごく艶っぽく見えたりするものだから、僕は思わず息をのんで、またひびきに
 どうしたの?と聞かれて……。やっぱりその唇に視線が釘付けになって。ど、どうすれば
 その艶っぽい唇に自然にキスができるだろう。いや待てよ、さすがに商店街じゃキスする
 わけにいかないな。ひびきも嫌がるだろう、考えろ、考えろ純一。どうすれば、どうすれば
 自然に……。なんだ、そういえば冷蔵庫にアイスがあったじゃないか。よし、部屋でアイスを
 食べることにすればっ)」


 妄想垂れ流しも甚だしいが、橘さんは真剣だ。
 好きあう男女が一つの部屋にいていちゃつきもせず妄想もせずにいたらそれは奇跡であろう。
 思春期の男の子ともなればなおのこと。
 彼は考えていた。
 どうしたら真面目なひびきの機嫌を損ねずに彼女にうまく甘えるかを。
 そして、あわよくばキスまで持ち込むかを。


 「ねえ」

 「(部屋でアイスを食べることにすれば、周囲の目もないしひびきも恥ずかしがらない
 だろう。うん、完璧だ)」

 「……ねえ、ちょっと聞いてる?」

 「え!? あ、いや、その、はい」

 「ふふ、暑さと難しさで頭がオーバーヒートしちゃったかな」


 妄想著しい橘さんの顔を横からのぞき込んだひびきが、くすっと笑う。


 「い、いや、そんなことは…… それよりあってた?」

 「うん、一カ所以外は」

 「え!? ま、間違ってたの?」

 「くす、ここは前から言ってるでしょ? 単位変換が入るからミスしやすいよって」

 「ああーっ」

 「君は考え過ぎなくらい考えるのに、肝心なところで考えが足りないんだよ」


 思わず天を仰ぎ頭を抱える橘さん。
 相当に自信があったようだ。
 そんな橘さんを見てひびきがくすくすと笑う。


 「もう一度、ここに気をつけて解き直して。くす、そうしたら終わり」

 「うん!」


 ひびきは橘さんのほっぺに自分のほほを軽く押しつけると、自分の課題に戻るのだった。



 しばらくして。


 「ふう、ようやく終わった」


 今日の勉強分を終えた橘さんが両手を伸ばしてそのまま床の上に大の字になった。


 「お疲れさま。夏で差が付くって言うからね。今が踏ん張りどころだよ」

 「それはわかっているけどさ……」

 「予備校に自宅学習、思っていた以上に結構大変?」

 「まあね」


 夏休み中に何度も交わされたやりとり。
 夏明けの模擬テストでどのくらい伸びているだろう、この調子ならそこそこの結果が
出るのではないか、とひびきは思った。


 「あ、そうだ冷蔵庫にアイスがあるんだ。食べない?」

 「いいの? 美也ちゃんの分だったりしない?」

 「人数分プラス1つ買ってきてるから大丈夫」

 「それならいただこうかな」

 「うん、それじゃ取ってくるよ」


 今日のノルマを果たし、晴れて自由の身となった橘さんが足取り軽くキッチンへ向かう。


 「(アイス、アイス、ひびきとアイス)」


 先ほど妄想した計画をいざ実行に移さんと橘さんの心は空高く舞い上がっているようだ。


 「お待たせ。はい」

 「ありがとう。じゃあ、いただきます」

 「いただきまーす」


 渡されたカップアイスのふたを開け、食べ始めるひびき。
 その横で橘さんがカップを見ながら固まっていた。


 「……」

 「……」

 「……」

 「……」

 「……ね、どうしたの? 食べないの?」

 「あ、いや、ほ、ほら、すぐに食べると頭がキーンとなるから」

 「ふふ、がっついて一度にたくさん食べるからだよ」

 「あ、あはははは」

 「ふふ」


 その場を取り繕うかのように乾いた笑いを発する橘さん。
 彼は大事なことに気がついたらしい。


 「(し、しまった。クーラーの効いた部屋の中じゃアイスがなかなか溶けないじゃないか。
 しかも冷凍庫にあったのはカップアイスでソフトクリームじゃないから、溶けたところを
 舐めとることにもならない。なんということなんだ)」


 想定外の状況に困りつつも、橘さんは自分のアイスのふたを開け食べ始めた。


 「おいしいね」

 「はは、そ、そうだね」

 「ねえ、私のちょっと食べてみる? ストロベリーおいしいよ」

 「うん、じゃあ」

 「ふふ、それじゃ、はい。あーん」


 ひびきは自分のカップからストロベリー味のアイスをすくいとって橘さんの口元に
持って行った。


 「あ、あーん」


 ぎこちなく食べる橘さん。
 口元からアイスがこぼれそうになり、あわてて舌でなめとる。
 と、そのとき何かが橘さんの頭の中ではじけた。


 「どう?」

 「あ、ストロベリーもいけるね」

 「でしょう?」

 「じゃあお返しにバニラをあげるよ。はい、ひびき、あーん」

 「ちょ、ちょっと、私はいいわよ」

 「なんで?」

 「は、恥ずかしいから」

 「恥ずかしいって、僕にはあーんってやったくせに」

 「そ、それはその、そうしたら君が喜ぶかなって思って」

 「じゃあ、僕もひびきに喜んでもらいたいから。はい、ひびき、あーん」

 「わ、私はだからやってもらわなくても……」

 「いいじゃないか、ここには僕らしかいないんだし」


 強引に押し切ろうとする橘さん。
 何か考えがあるようだ。


 「う、うん」

 「それに僕はひびきに食べさせてあげたいんだ。だから、はい、あーん」

 「あ、あーん」


 橘さんの強引さに押し切られるひびき。
 ぎこちなく口を開けて橘さんの差し出すスプーンの上のアイスを口に入れようとする。
 ひびきがアイスをすべて口に入れようとするその刹那、橘さんが一瞬早くスプーンを
ひびきの口から抜き去った。


 「ん……。あ、バニラもいけるね」


 ニコッと笑うひびき。
 その口元から口に入り損ねたアイスがこぼれる


 「よかった。(お、バニラアイスがひびきの口元を伝って……今だ)」


 ぺろ


 「!!! っっっ!?」


 電光石火のごとき早さでひびきの口元を伝うアイスをなめとる橘さん。
 いきなり口元をなめられて驚くひびき。


 「ご、ごめん、アイスが口元から伝って落ちそうだったから」

 「も、もう、だったらそう言ってくれればいいのに。いきなりなめられたらびっくりする
 じゃない」

 「あはは、ごめん。つい」


 そう言って橘さんが頭をかくも。


 「……もう」


 予期せぬ出来事にひびきが細い目を精一杯丸くする。


 「だって、その方が早いと思ったんだ。僕は善意で、その……」

 「だからっていきなりなめることないじゃない」

 「……ひびきはなめられるの嫌い?」

 「え?」

 「ひびきの唇がなめたくなるような唇だから僕は、つい……」

 「そんな風に言い訳して」

 「い、言い訳なんかじゃないよ。これは僕の本心なんだから」

 「……ばか」


 ぷいっと横を向くひびきの耳が見る見る赤くなっていく。


 「え?」

 「ばか。もうしらない」

 「えー」

 「だって」

 「だって?」

 「こ、こう言うのは雰囲気って言うのがあるでしょう? それならもうちょっと」

 「そ、そうかもしれないけど、これでも一生懸命考えたんだ。どうすればひびきと……
 キスできるかって」

 「はあ……」


 橘さんの言葉にひびきが深いため息をつく。


 「も、もしかして怒った?」


 あわてる橘さん。


 「まったくもう……。君は相変わらずだね」

 「そ、そうかな」

 「うん、相変わらず」


 そう言うとひびきは橘さんの背中に自分の背中を預けるようにもたれ掛かった。


 「え?」

 「私……教えてて疲れちゃった。もたれ掛かったら重い?」

 「そ、そんなことないよ」

 「そう? それじゃしばらくこうしていいかな」

 「う、うん」


 背中同士をくっつけて、ひびきは橘さんの肩越しに自分の顔を彼の顔の方に向ける。


 「……」

 「……」

 「(ひびきが僕の背中にもたれ掛かって……)」

 「……」

 「(なんだかすごくいい匂いがするな……)」

 「……」

 「(ひびきの顔がすぐ横に見える。目を閉じて唇が少し開いて)」

 「……」

 「(こ、これは、この雰囲気は。今だ、今しかない!)」


 意を決した橘さんが行動に移ろうとしたそのとき。


 「ただいまー。あ、塚原先輩きてるんだ」


 玄関に美也の声が響いた。


 「え!? あ、美也ちゃん?」


 弾けるように慌てて橘さんの背中から離れるひびき。
 お預けを食らった橘さんが、深いため息をつく。


 「はあ…… そうみたいですね」

 「……残念」


 うつむき加減にぽそっとひびきがつぶやく。


 「え?」

 「あ、ううん、なんでもない。それじゃ私はそろそろ帰るね」


 ひびきはそう言うと、テーブルに広げた自分の課題をバッグに詰めはじめた。


 「え? あ、もうこんな時間か。うん。じゃあそこまで送るよ」

 「うん」


 橘さんはそう言って立ち上がると、ひびきと一緒に部屋を出た。
 リビングで冷たいものを飲み一息ついていた美也が気配を察して慌てて廊下に出てくる。


 「あれっ、塚原先輩もう帰っちゃうの? 美也、塚原先輩とお話ししたい」

 「ごめんね、美也ちゃん。もう遅いし、それにまだ課題が終わってないんだ」


 美也に向かってひびきが軽く手をあわせる。


 「そんなぁ、課題ならリビングでやればいいじゃん。ついでにみゃーと一緒に
 夕ご飯作ろう」

 「帰りが遅くなっちゃうし、この間もご飯ごちそうになったばかりだから、悪いわ」

 「そんなことないよ。みんなで食べた方が夕飯もおいしいよ。ね?」

 「それは確かにそうだけど……」


 美也が食い下がる。
 一人で夕飯を作るよりはひびきと作って食べた方が楽しい、と言うことを美也はこの
夏休みの間に学んだようだ。


 「おまえな、帰ってきて早々、ひびき先輩を困らすなよ」

 「あのね。今日、逢ちゃんと買い物してたらすごく可愛いペンダントを見つけたんだ。
 これきっと塚原先輩に似合うよねーって話しになって、だから塚原先輩に教えようって」

 「……可愛いいペンダント」


 美也の発した言葉に身を乗り出すひびき。


 「ね、美也ちゃん、それどこのお店?」

 「えっと、駅前の……」


 美也の説明をふんふんと聞くひびき。
 はじめは身振り手振りでお店の場所を説明していた美也だったが、うまく伝えられないのか
地図を描くと言い始め、ひびきとともにリビングへ入っていった。


 「やれやれ、帰るんじゃなかったっけ?」


 軽くため息をついた橘さんは、かわいらしいアクセサリを見て微笑むひびきの姿を
想像し、そのアクセサリをつけている姿も想像し


 「まあいいや」


 と言いながらリビングへ向かうのだった。


 その後ひびきはリビングで美也と話し込み、大学の課題も結局リビングで済ませ、
夕飯を美也と一緒に作りみんなで一緒に食べてから帰って行った。



 「ずいぶん遅くなっちゃったね。美也のやつ、ちょっとは遠慮ってもんがあっても……」

 「家には電話したから大丈夫だよ。あんまり驚かれなかったな」

 「そうなの?」

 「うん、ほら、ここのところ夕飯をごちそうになることが多かったから、くす、そう言うもの
 だと思ってるみたい。こちらの家に悪いわって言ってたよ」


 駅までの道すがらを送ってくれる橘さんと歩くひびき。


 「一緒に食べた方が楽しいし、それに美也の料理はお世辞にもうまいとは言えないから
 ひびきが横にいてくれると安心だよ。悪いなんてそんなこと全然ないよ」

 「そう? ふふ、よかった。でも、私も料理の腕前は美也ちゃんとそんなに変わらないよ」

 「そんなことないよ。うん、ひびきの作ってくれる料理はおいしいよ」

 「……よかった」


 ひびきが照れくさそうに笑う。
 料理はあまり得意ではない、むしろ苦手と言う意識が強いからか、橘さんの言葉は
ひびきにとってうれしいものだった。


 「……今日はここでいいわ」

 「え? でも駅はまだ……」

 「いつもいつもじゃ悪いし、それに」

 「それに?」


 ひびきが両手が橘さんの顔を包み、すっと引き寄せた。
 夏の大三角形が瞬く下で一瞬ふれ合う唇。


 「駅まで行ったら恥ずかしくてこんなことできないから。それじゃ。
 家についたら電話するね」
 
 「あ、ああ、気をつけて」


 いつもよりも早足に駅へ向かうひびき。
 ひびきの唇の感触を確認するかのようにゆび先で自分の唇を触る橘さん。


 「考えすぎ……か」


 暗くて橘さんには見えなかったが、タイミングを考えに考え精一杯 ”らしくないこと” をした
ひびきの頬と耳は真っ赤に染まっていたのだった。

 二人の、その日の夜の電話のやりとりが少しぎこちなかったのは言うまでもない。




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