Chapter 01 パブリックスクール
◆はじめに
今思い返してみると初めて英国に旅立ってから15年も経ってしまっていてひどく驚いてしまう。
記憶というのは濃密な時間をすごしていればいるほど、振り返ってみると、何層にも塗り重ねられたカンバスのように、その下地にもともと何があったのかなかなか見えなくなってしまう。15年という歳月が短いものであると考えるべきなのか、それとも長かったかと考えるかは別にして、ぼくにとっては、今になって思い返してみると、1989年から英国とフランスで過ごした9年間というのは、疾風怒濤の中を訳も分からずに、でも不思議と迷路の中を歩んできたようにも思えるのだけれども、しかしかといって、日本で普通に高校生をしていたとしても、30を目前にして歩いてきた道のりを眺めたときに、同じように実際に自分が何をしてきて、その結果がどのような形で今の自分に結びついているのかはなかなか理解できないのかもしれない。
しかし、そういった茫漠とした感慨しかもてないというのは、何もそのころに何も吸収していなかったとか、現在と断絶してしまった過去だからというわけではなく、それとは逆にあまりにもそのときの生活が強烈で自分自身の現在の自我にあまりにも深く関わっているからこそ見えにくいのかもしれない。あまりにも多くの色と筆致が残されているがゆえに、見えなくなっているカンバスの下絵も、離れて眺めてみたり、分析してみると、おぼろげながらも見えてくるかのように、あまりに欧州での生活が体の中に染み付いてしまっているがゆえに見えない記憶というものも、こうやって少しずつ断片を整理することによって、何かしら見えるものがあるのではないかという淡い期待とがある。
実はまだパブリックスクールに在学している折に、学校での生活などを面白おかしく随想的に書き連ねたことがあり、それをある尊敬する方に送り続けたことがあった。その方は非常に面白く読んでくださり、続けるように勧めてくださったのだけれども、大学の受験でひとまず書かなくなり、大学に入ってからは、それまでとは違う環境に放り出されて、振り返ったりする余裕もなくなってしまい、社会人となり気がつくと2004年7月現在で29歳になっていた。アルチュール・ランボォ風に言えば20代の港を離れて、30の岬を越える微妙な歳となった今・・・逆に過去もまだ記憶や感受性の中に息づいていて、またある程度の分析力がついている歳にもなった(かどうかはぼくの場合は微妙だけれども)・・・少しは過去のことを自分自身の主観的な記憶として探すのではなく、少しは客観的に見ることができるのではないかと思い、ただの自己満足にも終わらせない為にも、ホームページを立ち上げたときには、随想風に記憶の断片を書き記していこうと思っていた。最初のうちは躊躇していたこの作業も、赫躍とした夏の日差しが照りつける中、16年前の夏の記憶が少しずつと鮮明になってきて、なにか纏まったものができあがるかはわからないのだけれども、わずかずつでも拾い集めた破片がなにか自分自身に対しても発見となることを願って・・・。
◆英国留学を思い立った理由・・・紳士とは??・・・
よくこれまでに訊かれたこととして、なんで英国に留学したのかという質問があった。そのたびに適当に答えてきてしまった気がするけれども、しかし自分自身が非常に影響を受けた本があった。ヒルトン著『チップス先生さようなら』である。この本を最初に手にとったのは中学2年生の夏のことで、中学生になってから急に読書の快楽に溺れた日々の中、ふと出会った薄い文庫本。映画にもなっていてかなりの方がご存知の、パブリックスクールを舞台にしたこの小説を読んだ時、本当に通学の列車内の喧騒も忘れ、英国の片田舎のそれもロイド・ジョージとかいう宰相の名が出てくるくらいだから相当昔の事ではあったけれども、その学校の風景が鮮明に脳裏に広がった・・・。それ以前から欧州で勉強したいという思いはあったけれども、漠然とした思いでしかなかった希望が、はっきりとこの時点で英国という選択肢が明確になり、いろいろと文献を探すようになった。まだ、当時はインターネットなどもちろんなくて、情報も思うように集まらない中で、幸い1冊の新書本を手にして、貪るように読み、そして共感し、明確に英国行きを決心した。
その本は『自由と規律』という本で、英国のケンブリッジにあるリース校というメソディスト系のパブリックスクールに留学した、池田潔氏が書かれた昔むかしの留学記だった。かえって『チップス先生』にしてもこの池田氏の著書にしても、現代の留学体験記を読まなかったことが本当に良かったように今になっては思える。それは、こういった第二次世界大戦で世界がそしてそれまでの世界秩序を保ってきた英国が変わる以前の本当のパブリックスクールのETHOSを感じ、共鳴し、そしてそれを追い求めることができたからこそ、ぼくの留学体験は不思議なものとなっていたように思えるし、だからこそ何度も辛いことが英国であっても耐えてこられたのかもしれない。先に結論から述べてしまうのは愚かかもしれないし、格好をつけ過ぎてしまって鼻につくかもしれないけれども、ぼくが留学したのは英国のパブリックスクールであったというよりも、自分自身の中にある理想の世界であって、物理的には英国に留学していたけれども、実際には精神的な規範がしっかりとしていた戦前の世界への憧憬があって、その思いを追い続けて結果として英国に旅立ったのだと思う。
少し話題はそれるのだけれども、過去への憧憬というのは今でも自分のうちに引きずっているもので、それだからこそレニエの『生きている過去』という小説に出会って感激し、それをホームページのタイトルにしたわけだが、何も戦前の世界がけっして良かったとは思わないし、もし仮に戻れるとしたらば戦前の世界に生きたいかと訊かれれば必ず「否」と答えるであろう。しかし、過去というのは歴史的にいろいろな過ちがあったけれども、すべてそれを否定してしまうことよりも、その中でよかったことの思い出を大切に受け継ぐことが何よりも大切であると考えていて、その思いは又別のところで詳しく書くかもしれないけれども、自分の曽祖父の想い出に全てがあるように、思う。
曽祖父というのは不思議な人で、実際にぼくは何度もあったことはなく死別してしまっているのだけれども、戦前は某宮家の別当職にあって、今の官僚とは比較にならないほどにまっすぐにお上に仕えるという私のない人だった。しかし、かといって体制に組み込まれた人というのも当てはまらなくて、戦争が激しくなったときでも、宮廷宮内官としての矜持もあったのか、三つ揃えの背広を瀟洒に纏い、ホンブルグハットにステッキ姿という純英国風の敵国紳士みたいななりをして190cm近い巨体で宮家に来る野蛮な高級将校を睥睨していたらしい。仕えている参謀総長の宮殿下にも「負け戦だ」と公言して憚らず、かといって殿下から疎まれるわけでもなく、戦後は宮家の財産を変なところに売るよりはと、自治体や政府関係機関に売却させ、整理がつくと全ての公職から身を引いて箱根に近い某所に引っ込んでしまった。この人の生き様を見ていると、まるで愛用していたスネークウッドのステッキのようにまっすぐで歪みもなく、白洲次郎氏がブームになってからよく取りざたされるプリンシパル(信念)というものが、別に英国に留学したわけでもないけれども、明治の男には持っている人が多く、曽祖父もその例に漏れなかった。そういった人はやはり英国に憧れを持っていて、その宮家の屋敷が描かれた絵葉書に、たしか『英国皇太子(エドワード8世)殿下が当地に滞在したときの想い出が今でもありありと残っています』と曽祖父が書き残したのがあって、過去のことをあまり語りたがらない曽祖父がプリンス・オブ・ウェールズに対しての記憶が鮮明で懐かしくおもいおこしていた。そんなことを幼いころからしっていたぼくは、それだけに無意識のうちに曽祖父の英国への憧憬を受け継ぎ、その淡々としながらも幾多の荒波にもまれながらも信じるところを信じ、曲げることもなく生き抜いた人生と、英国というのを結びつけたのかもしれない。
話は池田氏の『自由と規律』にもどるが、書評ではないのでここでは詳しくは触れないでおくけれども、『チップス先生』にしてもその本の根底に流れている理想像というのは『紳士ハ紳士タレ』という信念で、今になって結局紳士というものの定義があやふやには自分もなってしまっているが、その当時相当なショックでその考えを受け止めた。ぼくは中学を受験して私立の名門校といわれるところをことごとく落ちてしまい、まわりからは結構ひどいことを言われたりもしていて、自己嫌悪にもなっていたし、社会不信にもなっていた。詰め込んだ教育が絶対的に正しいと信じられてきて、その規範から脱落してしまったぼくはある意味レールから外れてしまったわけで、新しい価値観というものを模索していたと思う。そんな社会の中で、『紳士ハ紳士タレ』などということは全く違う価値観で、数学や英単語や歴史年表の丸暗記で人の人生が決定してしまう以上に高貴で本当に人に求められる価値観というのは、学校では一度も教えられなかったからなおさらであった。
『紳士』とはいったい何なのだろうか?信念を持ってその絶対的な原則に従って行動しているだけで紳士と呼ばれるのであるならば、おおよそ紳士的でない信念というものに従って生きている人は紳士であるのか?ということになってしまう。平たく例を挙げるならば、ヴィクトリア朝の偽善にあふれた紳士像がそのいい例で、表立っては黒服に身を包み謹厳実直なふりをしながらも、裏では社会的弱者を踏みにじり搾取する2面性があって、そんな爬虫類みたいな連中をどう考えても紳士と呼ぶわけにはいかないと思う。
『紳士』の概念は留学してからおぼろげに分かったのだが、人それぞれいろいろな考え方があって、ラグビーで有名になったラグビー校の校長だった(『トム・ブラウンの学校生活』という本で偶像化された)アーノルドという教育者はラグビーのようなスポーツで体を鍛え精神も鍛えられた男子を紳士と呼んだが、この肉体重視のオプティミスティックな短絡さは、『健全な肉体に健全な精神が宿れば(いいなぁ)』という希望の言葉を『健全な肉体に健全な精神が宿る』という簡単なラテン語の読み間違え(?)にも通ずる危険さがあって、どうも好きになれない。しかしこの考え方がパブリック・スクールのほとんどに適用されてあって、一般的に日本で思われているような『全人教育』からは程遠く、昔に比べれば良くなったものの、未だにラグビーなどが学業や情操教育より上位に位置している。結局ラテン語教育とラグビーでローマ帝国になぞらえた大英帝国を維持する為の軍人を要請する為の考え方で、個々人の精神的な発育からはおおよそ遠い結果を生んでしまうのではないだろうか?そんな疑問もあって、僕は最初に入学した Fettes College を転校をすることになったのだけれども、その顛末についてはまた後で書くことになると思う。この学校の後で行った Downside School はすこし変わったパブリックスクールで、自分にとってはここで過ごした2年間が自分にとって大きな影響を及ぼし、また、自分にとって第2の故郷となっている。何が変わっているかといえば、普通イギリスのパブリックスクールは英国国教会の学校なのだが、 Downside はベネディクト修道会の付属の学校で、ローマカトリックであるという独特の環境にあった。カトリックというのは部外者から見ると不思議な組織で、実際にバチカンという国家はあるけれども、それ以上に世界の国境を越えた仮想といってもいいほどの国家的組織が縦横無尽に張り巡らされており、故に政治的な国家からすればカトリックの仮想国家は脅威ともなり、英国もその例外ではなく、中央集権の体制をとろうとした政治にとってローマ教会は目の上のたんこぶみたいだったということが、国教会の成立の一つの要因にもなった。しかし、歴史的ないきさつはともかくとして、軍隊的なパブリック・スクールに辟易としていた自分にとっては、『国家』という至上の価値観よりも『精神的な価値観』を重要視するローマ的な寛容さと芸術を重要視する気風は本当に心地よかった(英国人は概して芸術には冷淡というか、基本的に感覚に対しては不感症な要素があるのかもしれない)。この学校で寮長だったジャーヴィス神父はベネディクト会的な貴族趣味と、いい意味での英国的な紳士で非常に僕に影響を与えた。彼が自分が紳士とは?とたずねた時に、19世紀中ごろのオックスフォード運動といわれる思想活動の支柱ともなったニューマン枢機卿(運動当時は国教徒だったが、後にローマ・カトリックに改宗)の本を貸してくれた。ニューマン枢機卿の紳士像は『本能的に他者を傷つけることを厭い、他者を尊重する者』というものであった。単純なことであるが、これこそ本当に基本になることであって、そして難しく、そしてスコラ哲学の善悪から引き出された倫理観であると思う。彼は本当に非常に温和でありながらも、意図的に他人を傷つけたりという事を嫌い、いつも微笑を浮かべエレガントに振舞っていた。自分にとって彼のオーラこそが紳士のオーラであったと思う。しかし、本当の紳士は自分が紳士であるとは思っておらず、紳士でありたいと希求する真摯な思いのみを持っている。映画『ラスト・エンペラー』で、少年溥儀が家庭教師のジョンストンに初めて会ったシーンで、あなたは紳士なのか?とたずねた時に、ジョンストンは『いえ、陛下、しかし紳士でありたいと日々努力しております』と答えた。この映画を見た時に、自分はふと、自分の寮長だったジャービス神父を思い出した。
続く